「尾崎翠」から拡がるゆるやかなネットワーク  「尾崎翠」へとゆるやかに収斂するノマドたちの非-群

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岩美町のゆかりの地案内―岩井温泉方面

①岩井温泉/西法寺(さいほうじ)

西法寺.jpg

尾崎翠は明治29年(1896)、鳥取県岩美郡岩井村(当時)の西法寺の本堂裏の小部屋で生まれました。このお寺は翠の母・まさの実家でした。現在この部屋は修復されて「翠の部屋」と名付けられています。幼い翠はこの境内で兄や従兄弟たちと元気に遊んでいたことでしょう。「尾崎翠生誕の地碑」が設置されています。 
 

②岩井温泉/旧・岩井小学校校舎

岩井小学校

翠の誕生のとき父・尾崎長太郎はこの小学校の首席教員として勤務していました。校舎は明治25年(1892)建築で、120年の風雪に耐えて現在もほぼ当時の姿を伝えています。擬洋風木造校舎建築としては鳥取県で最も古く岩美町指定保護文化財です。翠満3歳の時、長太郎は校長として転勤、一家は鳥取市に移り住みました。
 
 

③岩井温泉/共同浴場「ゆかむり温泉」

ゆかむり温泉

岩井温泉は開湯から1200年以上という山陰最古級の温泉地です。鳥取藩政時代に湯治場としての整備が進みました。現在の共同浴場はその頃の「入込湯」を受け継いできたものです。共同浴場での光景は、代用教員時代の作品「悲しみの頃」や文壇デビュー作「無風帯から」の中でも描かれています。翠の時代の共同浴場は現在の浴場の駐車場(写真の右側)の位置にありました。

④岩井温泉/蒲生川(がもうがわ)

蒲生川

岩井温泉は蒲生川の豊かな伏流水を水源とし、地下100㍍以上の深さの「岩井火砕岩層」という火山性の地層を熱源として、川の中流域に湧出しています。また川は日本列島形成時(約2,300万年前)にできた大きな地殻変動による断層に沿って流れています。岩井大橋から上流方向を眺めると「無風帯から」冒頭で描写された、「巨獣の脊骨」のような山並みを眺めることができます。

番外 ちょっと道草/温泉伝説の伝わる「医王山東源寺」

東源寺

岩井温泉の起源伝説にまつわるお寺。薬師如来(医王)から岩井の霊泉を授けられ、病が全快した平安時代の宇治の貴族・藤原冬久がその恩に報いんと自ら彫った薬師如来木像を祀ったお寺とされています。その霊験あらたかなことから遠方からも参詣客が絶えず、岩井温泉とともに繁栄したといわれています。古くから桜・紅葉の名所としてにぎわっていました。西法寺の隣に位置しています。

番外 ちょっと道草/「およし道路」 

およし道路

JR山陰線岩美駅から岩井温泉方面へ約1㎞の直線道路が延びています。明治45年(1912)山陰線全線開通の際、岩井温泉の振興を願って旅館「木島屋」の女将「木島よし」の献身的な努力によって開通した道路です。尾崎翠の教員時代の作品「悲しみの頃」の末尾でヒロイン「春路」が歩いて行くのはこの道です。やがて行手に岩美駅が見えてきます。
 
 
 
岩井温泉側から岩美駅方向を望む
 

岩美町のゆかりの地案内―網代・大岩方面

⑤網代港

網代港320

網代港は蒲生川の河口の東側に位置します。冬季の北西からの厳しい季節風によって砂が堆積し、美しい砂浜が形成されていました。教員時代の翠は毎日のように砂浜を歩いていました。昭和27年ごろから改修工事が行われ現在は砂浜はなくなってしまいましたが、潮風は昔のままに海の匂いを運び、頬を撫でて吹いていきます。
 

好天の時には灯台方向の彼方の水平線に、「青谷の岬」が長く横たわって見える。

網代M45頃320

 
 
 
 
 
 
 
 
明治45年頃の網代港(『岩美郡誌』明治45より)。日露戦争後、全国の河川や港湾の改修が盛んに行われた。浚渫船、築き始められた突堤、白帆の舟、砂浜に和船などが見える。

⑥網代僧堂

網代僧堂

浜から続く細い村道を上がってゆくと、西法寺別院・網代道場(僧堂)があります。祖父母夫婦の隠居所として建てられ、網代での布教の役割を果たしました。このお堂に住んで翠は習作に励みました。僧堂の前の家の軒先で「お隣のお婆さん」がカチカチカチ…とキュウリを刻んでいました。その光景が「青いくし」という最初期の短文に表現されています。
 
現在の網代僧堂 

旧網代僧堂320

代用教員として赴任する直前に網代を訪れた体験を材料としたと推測される散文「海と小さい家と」では、夏の熱い砂浜、渡しの若い船頭、漁に出る前の港の光景、老夫婦や村の人々の暮らしの様子などが初々しい筆致で描かれています。「小さい家」とはこの僧堂のことでしょう。
 
 
改築される前の網代僧堂。左側奥の四畳半間が翠が住んだ部屋。平成初年撮影。(写真提供:西法寺)  

番外 ちょっと道草/「千貫松島」「観音浦」

千貫松島

網代港から「浦富海岸自然歩道」が始まっています。歩道へ入って5分程で、眼下に小さな入り江が開けます。そこに松を頂く岩の島「千貫松島」が浮かんでいます。荒波によって浸食されてトンネルのように穴が貫通している「海食洞門」です。その向こうには落差70mの垂直の絶壁「おしろいの断崖」(海食崖)がそそり立っています。この断崖上に網代展望台が設置されており、そこからの眺めは格別です。

千貫松島 

観音浦

網代展望台から眺めると、荒波に浸食された数多くの島々がまるで庭園のように浮かぶ風景が広がります。昔、その小島の一つに、金色の観世音菩薩が現れ、遭難しそうな漁師の命を救ったという伝説から「観音浦」と呼ばれています。今でもその小島は海の聖地として、手を触れてはならない、とされています。この周辺は山陰海岸国立公園、また特徴的な地形・地質を見ることのできる山陰海岸ジオパーク(世界認定)に含まれています。

観音浦

⑦網代隧道

網代隧道

僧堂から村の道を降りて浜で左へ曲がると小さな隧道が見えてきます。明治45年(1912)に開通したもので、翠が網代に移り住んだ時はまだできたばかりでした。当時は内壁の岩がむき出しでゴツゴツとし、冬季には氷柱が下がりました。この隧道を抜け、蒲生川沿いに沓井、岩本を経て、大谷砂丘下の大岩尋常小学校へ通いました。

 
 
 
 

全長45m、向こう側が網代。

⑧大岩尋常小学校跡

大岩小学校320

大正3年(1914)7月から6年(1917)1月までの2年半、尾崎翠は代用教員として「大岩尋常小学校」に勤務しました。この教員時代を「あの頃が一番の私の詩人らしい時代だった気がします」と、のちの作品「花束」で述懐しています。学校はその後大谷砂丘の中央あたりに移転し、現在は「岩美西小学校」となっています。右の写真は翠の時代と同じ場所に建つ昭和27年当時の「大岩小学校」を大谷砂丘の上から撮影したもの。学校跡は現在は空き地となっています。

番外 観光しよう/浦富海岸島巡り遊覧船

画像の説明

大谷の沓井大橋たもとからリアス式海岸の目を見張るような景観を楽しむ観光遊覧船が発着しています。往復約40分、船長さん自らのガイドも好評。乗り場にはお食事処もあり、網代港の地元ならではの新鮮な魚介類を気軽に楽しむことができます。船は30分ごとに出航しています(12月~2月休航)。
岩美町観光の問合せは岩美町観光協会へ。 
  
浦富海岸(うらどめかいがん) 
・名勝及び天然記念物 
・山陰海岸国立公園
・山陰海岸ジオパ-ク(世界加盟認定)
写真提供:鳥取県写真ライブラリー

尾崎翠フォーラム実行委員会  〒680-0851 鳥取県鳥取市大杙26 土井淑平気付
TEL&FAX 0857-27-7369
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